私と演劇人生

梅村善孝

 青年教師であった頃、演劇部の顧問になつたのが、演劇との出会い。それまで、観ることはあっても、創ることには全く縁がなかつた。
 顧問になって初めて参加したコンクールは、地区予選で惨敗。これが負けず嫌いな僕の性格に火をつけたようだ。
 他校の顧問の紹介で、名古屋の「Y舞台研究所」へ遊びに出かけ、照明や舞台美術の手ほどきを受けた。やってみると、これがまた面白い。すっかり虜になってしまった。

 創作脚本を手がけたのも、怖いもの知らずの若さのいたりとしか言いようがない。しかも、これで県大会へ進出してしまった。これ以後、僕が歴任した三つの高校の演劇部は、すべて僕の創作脚本で、中部大会へ駒を進めた。その間、中部大会で発表された優秀な創作脚本に与えられる「名古屋演劇ペンクラブ賞」を二度いただいた。
 更に、僕の代表作と言われる脚本の中の6本が、門土社総合出版の戯曲集第23巻「こおろぎ」におさめられている。

 また、駆け出しの頃から苦労を共にしてきた津島高校演劇部の卒業生を中心に組織され、地域で自主公演を続けた「劇団くつわ」の脚本・演出も担当し、家庭は女房まかせのまさに「演劇漬け」の40代であった。この頃、知り合った前進座の瀬川新蔵さんには、プロの演劇観をしっかり教わった。

 その後しばらく、本業の高校教師の仕事が忙しくなり、高校演劇とは疎遠になったが、再び舞台への情熱に火をつけたのが、昭和62年、本県で開催された「第11回 全国高校総合文化祭」である。これまでのキャリアを買われ、総合開会式の式典とアトラクションの構成と演出を引き受ける事になり、県庁と学校の二股生活が1年半続き、その間、出演する高校生達と、久しぶりに舞台で火花を散らした。苦しかったが、充実していた。愛知県の高校の文化水準の高さを、全国の高校生達にアピールし、先導的役割を果たそうと語りかけ、顧問や生徒のモチベーションを高めた。

 この思いが、今回の「とよた市民野外劇」の第2部の構成と演出につなかっていると思う。数多くの文化団体とその構成員が、それぞれの役割を自覚し、自分の責任を確実に果すことができれば、舞台は必ず成功する。僕はそのお手伝いがしたいだけ・・・。

 演劇の脚本家や演出家は、決して表舞台へは出ない。あくまでも「陰」の存在である。オーケストラの指揮者のように、舞台の中央で指揮棒を振ることもない。観客の中には、その存在すら知らない人も多い。多くのスタッフを統制し、力を結集し、ドラマの下部構造をしっかり支えてこそ、上部構造としてのドラマが、はじめて観客の心を引きつけるのだと思っている。この関係がしっかり構築され、これに観客の反応とが一体化した時の身震いのするような感動・・・。これが、今も僕を捉えて離さない。